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柴田望洋の教え
生徒とは器(うつわ)のようなものである。

 これは、数年前、私が師事する陳沛山老師(陳氏太極拳第二十世)に教えを戴いたときに痛感したことです…。
 久しぶりに老師にお会いし、練習を見ていただくことになりました。最初に、套路(日本の武道で言う「型」のこと)をやってみなさいと言われ、私は套路の演武を始めました。
 日頃の練習不足だけでなく、久しぶりに老師にお会いすることによる緊張、さらに福岡からの旅の疲れなども重なり、とんでもない套路となってしまいました。
 陳沛山老師は、私が套路を始めてから僅か数秒で、ソッポを向かれてしまわれたのです。私は、目の前にお座りになりながらも、どこか違うところを見られている老師を前に、延々数分間の演武をすることになったのです。私の上達は、老師の期待するレベルに全く到達していなかったのです。
 そう。そして、私は身に染みて感じました。

「ある意味では、生徒とは、器(うつわ)のようなものであるのだな。私が、自分自身の器を大きくしない限り、先生はそこに水を注ぎ込もうにも注ぎ込めないのだ。私の器は、なんと小さく、しかも全く余裕がない満杯になってしまった状態なのだろう。自分が恥ずかしい。」

と。
 先生は、水を注ぐことはできます。しかし、それを受け入れる器を、どのような大きさで、どのように作るのかは、学生である皆さん次第なのです。小さくて、かつ満杯の器には、何も入らないのです。

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